Orgelbüchlein

Orgelbüchlein について語ろう。

もちろん放談で。

この曲は思い入れたっぷりの演奏だと

いかにも宗教的な曲集であるかのような錯覚を呼ぶ。

それぞれ「主よ なんたらかんたら」などの題名がつく。

なおさらである。

まあどう聴こうと自由ではある。

もっとも斬新で根源的な断片曲の集合体がOrgelbüchlein。

その表現がぴったりくる。

これが即興演奏で産まれたのであれば神憑りの呈が

甚だしすぎてやってられない。

あまりにも断片的すぎてその疑いが払拭されないのだが。

根源に近いものは饒舌からは程遠い存在。

そのことを証明するかのような曲集である。


どうもJSバッハのオルガン神曲を聴くと

ほかの作曲家のオルガン曲が児戯に見える、

と言ってみたい衝動にかられる。

よくない錯覚であり、悪しき思考習慣だ。

この症状は寛解させねばならない。

どこかにいい薬ないだろうか?

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音源と言う名の博物館

最近、音楽を聴くことにあんまり興味が湧かない。

30年前座右の銘の如くに傍らに在った

ベートーヴェン氏やブルックナー氏にさえ

会いたいと思わない日々が続く。

刺激臭のある音に辟易している。

聴いて数秒で飽きる。

本日一年ぶりくらいにたまたま

モーツアルト氏を聴いた。

刺激臭のまるでないない音に

飽かない自分がいた。

はじめての経験と発見。

モーツアルト氏は短調すら刺激臭が皆無。

由来不明で行先不詳の音と

こんな形で折り合う日が来るとは。



ほんらい音楽とはライヴを指すのだが…

かつて楽譜音楽と録音音楽は赤い糸で繋がっている

と妄想したことがある。

実存と幻影。

光と影。

幻影が流布することで成立する娯楽音楽。

幻影がなければ音楽は本来神官が執り行う神事である。

実存に許された幻影がある。

光は自らの影を指定する。

指定された幻影を聴ければそれで充分。

音源という博物館を逍遥できればよい。

今のところ博物館への入場はフリーだが

もし博物館に入館するのに審査がはじまれば

申請書類は提出しない。

そのときはお別れである。

その日がくるまで

この時代に生きたことを感謝して

ときどき博物館を逍遥しようと思う。


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トルコ行進曲

不確かな記憶だが、

モーツアルトの「トルコ行進曲」の名前の由来は

楽譜に「トルコ風に」とあったからだと言う。

意味はエキゾチック風ということだ。

当時は確か少し前に

オスマン・トルコ軍のウィーン包囲があった。

未だトルコはヨーロッパ勢にとって

畏敬すべき強大な隣国であった。

「トルコ風に」という言葉には、

ゆめ軽蔑の意は含まれないであろう。

隔世の感がある。

いつから西ヨーロッパ勢は傲慢不遜になったのか。

そして今相対的に力が低下したヨーロッパ勢は

ローマ帝国末期のような様相を呈している。

英国が脱出したということはEUは泥船なのか。

近代ヨーロッパのビックバン開始に符合する

西におけるモラレスとヴィクトリア。

伊におけるフレスコバルディとモンテヴェルディ。

みなビッグバン成就とともに終焉している。

ビッグバンが無かったら無かったかもしれない音楽。

仏は地中海北部地方唯一の土着音楽発祥の地。

だから社会情勢と符合せず連綿と続く。



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ショスタコーヴィチ氏 交響曲10番

ショスタコーヴィッチ氏の交響曲10番を聴く。

正真正銘35年ぶりである。

35年前は「私的音楽療法」

の臨床試験として挑戦した。

結局この曲のどこがいいのか

さっぱりわからなかった。

多分今聴いても同じだろう。

それなのに相当はまった。

35年前の不可解な現象の考察のために聴く。

当時と同じ演奏者。

カラヤン指揮ベルリンフィル。

今回はモスクワでのライヴ。

それほどメジャーでない曲の演奏は

カラヤン氏は悪くない。

もともとかなりの才能はあるから。

メジャーな曲だと音楽的野心が鼻につく

のがうざいので予防的に避けるけど。

さて、35年前にはまったのは

特に第4楽章前半の木管楽器のソロ部分だった。

なつかしく聴く。

当時想起された心象風景は

ソ連とも作者とも全く関係なかった。

原人や猿人が棲息する地球にワープしていた。

そんな時代は見たこともないのだが。

今聴くと残念ながらその風景にリアル感はない。

派手な終曲前にいつも見せる抒情的なくだりだ。

このカラヤン氏の演奏は名演であろう。

モスクワ公演だから気合もはいっているはず。

下手すれば冗長になりかねないこの曲を

コンパクトに見事にまとめている。

昔この曲はカラヤン氏の名盤に数えられていた

記憶がかすかにある。

それはこのモスクワライヴなのか、

別の録音なのか、わからないが

35年前に聴いた録音はもっと冗長でたっぷり

謳い上げていたような気がする。

ひょっとしたらモスクワ公演仕様の演奏かもね。

もしそうならこの演奏は今回の考察には

あまりふさわしくないということになるが。

まあでももういいけどね。



いつも言うけど 何の根拠もないが

音楽は、断片的な状態でどこかに漂っている。

それは人間の創作ではないものから

人間の創作まであらゆるものがある。

人間の創作だけでもすべてのものが

すでに漂っている。

(文明輪廻説があるが、アメーバからの輪廻すら

あり得ると思う。進化論はとらない。)

漂っているもの、

それをキャッチする高性能アンテナを所有する者が

作曲の才能ありといわれる。

アンテナの性能向上は後天的な学習では困難。

断片を繋げる作業は後天的な学習でも可能。

結局、作曲活動と(即興)演奏はシャーマン的作業。

著明な多作家はこれ以外の説明がつかない。

多作家だったショスタコーヴィチ氏。

ご自分のシャーマン能を自覚されていたであろう。

断片を繋げる作業に決して奇をてらったりせず

あくまでオーソドックスな手法を好んだ。

シャーマン能が最大限に生かされている。

妙な味付けをせずに素材を生かしたレシピ。

よって多くの人に感銘を与えることになる。






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日本人のバッハ演奏

さて、わたくしは今後の人生で

たとえばJSBach氏のカンタータを聴くのであろうか?

もしかりに聴くのだとしよう。

はたして西洋人の演奏を主に聴くのか

それとも日本人の演奏を主に聴くのか

どっちを選択する?

これが少し悩ましい。

前者は聞き慣れていて違和感がなくいつもの景色だ。

後者を選べば道程変更であり新たな景色であろう。

いつもながらためしに聴き比べしてみた。

前に書きなぐったことの確認だったが

やっぱり両者は天地ほどにも違う。

演奏家の個人資質を超えた厳然とした相違を感じる。

単音の出し方がまず違う。

西洋人の単音は打撃音の如く。

日本人の単音は吸着音の如く。

複数音の表現も違う

西洋人の複数音の表現は

果断で非溶解性の属性あるが如く。

日本人の複数音の表現は

集団的で溶解性の属性あるが如く。



35年前にJSBach氏のカンタータを聴こうとすれば

音源はカール・リヒター氏が有名だった記憶が。

今だともう亡くなったが

ニコラウス・アーノンクール氏あたりだろうか?

わたくしは演奏家をあまり知らないので。

リヒター氏の鋭い感性に比べて

アーノンクール氏はずいぶん温和な感性に見える。

が日本人のバッハ演奏家S氏と聞き比べれば

歴然とアーノンクール氏の演奏は果断で鋭利である。

これはもうどうしようもない。

解釈とか演奏スタイルの問題ではなく

もっと根本的な西洋人と日本人の相違なのだ。

もちろん優劣の問題ではない。

S氏にも多量のカンタータ音源がある。

わたくしにとって

受難曲その他はもうリヒター氏のイメージが

強すぎてどうにもならないだろう。

比較的手垢のついていないカンタータを

今後きくとすればそればやはりS氏の音源

がいいのかもしれない。

理由は日本人だから。

単純にそれだけ。


この問題はカンタータに留まらず

チェンバロ、ピアノ、ヴァイオィン で数人の優秀な

日本人の音源がバッハ曲目をカヴァーできた暁には

そっちに移行する可能性をはらむ話だ。

そんなに遠くない時期にそうなる予感はあるけど。



さて、日本人の演奏家が

欧米に居住する期間が長くなればなるほど

ハイブリッド化が進む。

珍味ゆえに欧米では評価を受ける。

日本人の演奏家が世界で評価される

唯一といってよい道かもしれない。

日本では欧米での高評価が肩書になり燦然と輝く。

皆褒め称える。

くさす人はいない。

欧米に喧嘩売るような輩はいない。

珍味は好き嫌いのふり幅があってこその珍味なのだが…

わたくしは個人的には国籍不明風の    

もしくは二重国籍風の珍味は好みではないかな。

ズバリ本音を言わせて頂ければ

海外経験なしか、短期間留学後、日本国内で活動する

演奏家の演奏が好みである。

つまりあまりハイブリッド化していない演奏が良い。

できればの話である。


まあ例えばピアノで

果断風な指使いを披露する日本人演奏家を聴くと

追い付け追い越せの思想を感じることがある。

彼我の優劣を前提にする意識の存在はいらない。

背伸びしている風は滑稽かも。

欧米に帰化しているかのような経歴の演奏家の

果断な指使いは、堂に入っており立派である。

あとは好みの問題だけだ。


よし、はじめて日本人演奏家の放談ができたぞ!?



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ケルル氏とパッヘルベル氏②

1627 Kerll氏についてだが

1653 Pachelbel氏のウィキペディアでは

Kerll氏は南独のオルガン作曲家の重要人物として書かれ、

Pachelbel氏はKerll氏の弟子に師事し、

さらにKerll氏本人にも師事したかもしれない

と書いてあった。

いっぽうKerll氏のウィキペディアでは

Kerll氏はオルガン教師として当時から有名。

Kerll氏の作品はこんにちほとんど演奏される機会はなく

ただ1685Bach氏に影響を与えたという一点のみで名前が

残っている  というような記述だった記憶がある。

どっちがより事実に近いのか?

両方ともドイツ語に原典がある記述なのだろうが。

Bach氏に影響を与えたとはどういうことか?

写譜が残っているということか?

Bach氏は価値を認めない曲の写譜はしないだろうから

もしそうなら

Kerll氏のウィキペディア記述は変である。

Kerll氏を聴くと南方系で理知的な立派な作品である。

いったいKerll氏はどのように思われているのだろうか?

これほどのポテンシャルの曲を切り捨てる記述が

本国に存在するのは驚き。

いったいどうなっているのか?

Pachelbel氏のウィキペディアでは

南独のオルガン作曲家としてKerll氏のほかに

数人の名前が記されていたが

はじめて聞く名前ばかりであった。

彼等のポテンシャルはどうなのだろうか?

少し気になるところではある。


北独のバロックオルガン曲を濃密なロマン派に例えるなら

南独のKerll氏のそれは新古典派である。

しかも新古典派のような人工的な臭いのしない自然な響き。

現代の感性に近しい響きである(と思う)。

Pachelbel氏はもっともっと突き抜けている。

それが南独オルガン音楽の特色の延長線上の範疇なのか

完全なる個人資質に依るものなのか 判然としない。

オルガン音楽におけるTelemannのようでもあり

現代の優秀なインストルメンタルの要件すら完備している。

全くもって突然変異的なのだが……

だからこそ稀代のヒットメーカーなのだろうけど。





さて、完全無欠のワイドショーネタであるが

Pachelbel氏もKerll氏も ネット上での肖像画を

拝見するにかなり残念な事態になっている。

つまりイケメンとは言い難いところがある。

はっきり言えばかなりのブス。

なぜだろう?

才能ある音楽家はそれなりの容貌なことが多いし

十人並の容貌であってもかなりもてるはずである。

スカルラッティのドラ息子氏がよく知られるが

パトロンの王侯貴族とできてしまう音楽家は

少なくなかったはずである。

しかるに彼等の肖像画が事実の一端を伝えているとすれば

お二人に関しては200パーセント無いと断言できる。

評伝で醜男ネタをいじられている作曲家は

知る限りツエムリンスキー氏だけだけど…

ひょっとしてお二人は画家へのチップを惜しんだのでは。

どうみても悪意がそこはかと漂う肖像画ではある。

この時代、チップをはずまなかった有名人は

お二人だけではないようだが?




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ヨハン・パッヘルベル氏

1653 Pachelbel氏 は不思議な作曲家である。

教会オルガニストも務めたが、それが本領ではなさそうだ。

室内楽や声楽もたくさん書いたが

本分はオルガニストであり、オルガン作曲家のようだ。

彼の不思議な点はふたつ。

オルガン作曲家としては古今唯一の大ヒットメーカーである事。

(バロック期として異例であろう)オルガンが生活空間の居間に

備わる楽器であるがが如き身近で日常的な趣の作風である事。

二つの不思議点は連動しているのだろうけど。

バロックまではオルガンは教会に備わる楽器が前提であるが

如き趣の曲がほとんどである。

(荘厳 厳粛 精神性 そんな風情がオルガン曲の属性のように。

たとえ非宗教曲であっても。

その傾向が明確に変わったのはもっとあとのこと。

1724 Balbastre氏が象徴的なんだけどね)

なのに Pachelbel氏の非宗教曲はすでに荘厳厳粛どこ吹く風である。

(1562 Sweelinkの一部の曲にすでにその匂いはあるのだが…)

荘厳 厳粛 豪快なオルガン曲を好んできたわたくしは

南独のオルガン作曲家として

1653 Pachelbel氏 よりも1627 Kerll氏のほうが…

なんだけどね。

でもやはり Pachelbel氏の楽才と宗教曲の出来栄えには

文句なく脱帽である。

しかも時を超えて現代でも多くの人に支持される楽想。

Pachelbel氏の突然変異ぶりは突出している。

後にも先にもない存在だ。

バロックとともに萎んだドイツのオルガン音楽はともかく

連綿として続くフランスのオルガン音楽でさえ結局

1822 Franckが荘厳厳粛な属性を呼び戻しているのに。




Pachelbel氏の話はここで終わりだが

書いていて想起された別の事案を書き留めて置く。

(なに? パッヘルベル氏にそれほど思い入れがないのかって?

バレちゃしょーがねーや!)

続く



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フランス・バロック・オルガン音楽

1632 Nivers氏を知ったのをきっかけに

再度フランス・バロック・オルガン音楽を逍遥してみた。

経歴と意識が

教会オルガニスト>作曲家 か

作曲家>教会オルガニスト か

という視点から。

(以前にもちょっと考えたことがあるけど)

前者と後者はかなり異なる音楽空間だ。

それが再確認された。

作曲家としてではなく

教会オルガニストとしての生き様が

推測される方のオルガン曲が最も好みに合う。

(何回も言うが、わたくしは宗教に何の興味もない)

教会オルガニストとして生きた人の特徴は

宗教的オルガン曲以外の作品が無いか、ほぼ無いこと。

人物像を示すエピソードの記述がほぼ皆無であること。

1632 Nivers氏  1649 Boyvin氏  1650 Raison氏

1671 G.Corrette氏 1672 Du Mage氏 1672 Grigny氏

この人たちだ。

わたくしにはかけがえのない曲たちであるが

彼らの作品の音源は日陰にひっそり咲いている。

理由は人気がないから。

1680 Guilain氏 は教会オルガニストの確認が取れないので

挙げなかったが、

何となくそんな意識を持った人のように感じる。

この人はもともとドイツ人でマルシャン氏の弟子らしい。

フランス8 ドイツ2 くらいのハイブリッドな感じ。

1563 Titelouze氏 は教会オルガニストなのだろうが

挙げなかった。

この人の曲は少し上記の方々とは異質に聞こえる。

その訳はちょっと答えを留保したい。

そのうちに。




さて あとは作曲家としての意識のほうが強い人たちである。

1624 Roberday氏 1629 D'Anglebert氏 1631 Lebegue氏 

1662 L.Cuperin氏 1668 F. Couperin氏 1669 Marchand氏

1676 Clérambault氏 1682 Dandrieu氏 ……


まあ今日のところはそんな感じかな。





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毎度! F-Couprin氏

今までF-Couprin氏を結構茶化してきた記憶があるが、

今日はF-Couprin氏への「真面目な放談」からはじめよう。

F-Couprin氏のセンスと楽才は確かに素晴らしい。

彼の曲には透明感もあり、素直できれいな音楽である。 

F-Couprin氏がヴェルサイユ宮廷という伏魔殿に棲息

する覚悟をいつ決めたのか知らないが……

仮面音楽。

本音が渺恾として見えない。

高級宮廷御用達調度品という値札だけがよく見える。



高級御用達調度品といえばTelemann氏の「食卓音楽」は

そのものズバリである。

楽譜の予約注文を全欧から受け付けたというから

自信と立場が裏口から宮廷に出入りする出入り業者とは違う。

高級御用達調度品の要件を完璧に満たしながら

室内合奏曲としての至高の表現形態も成就している。



仮面音楽と言えばPalestrina氏が思い浮かぶ。

F-Couprinはおそらく処世の術としての仮面音楽だろう。

Palestrina氏の肖像画を見よ。

言う事と思う事は違いますよという表情である。

駆け引きする相手はバチカンであるから並大抵でない。

一国の宮廷どころの騒ぎではないのだ。

Palestrina氏の肖像画を見ていてふと感じた。

中世以来の目的ここに成就せり。

ローマ教皇庁に転がされ続けてきた作曲家が

ついにローマ教皇庁を転がしたのだ。

ざまーみやがれ。

そんな表情に一瞬見えた。



どうも毎度のことながらF-Couprin氏の話題になると

いつもF-Couprin氏が前フリになってしまう。

ほんとうに申し訳ない。

わたくしは決して君が嫌いではないからね。

F-Couprin君。




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イギリス音楽

最近、時々感じているのだが

イギリスの音楽はいつの時代の誰を聴いても

くせがなく、素直で素朴だ。

そしてとにかくわかりやすい。

そんな音楽がイギリスの音楽。

ヨーロッパの他の大国にはない特徴だ。

好んで聴くわけではないのだが…

なぜだろうと思う。

大雑把に考えてみれば

イギリスには強力無比な中央集権王朝はついに出現しなかった。

いくつかの部族のゆるやかな連合体の面影を残して推移している。

大陸の血生臭い抗争からは距離を置くことが多かった。

あくの強い宮廷(音楽)は展開しなかった。

バチカンの影響も比較的薄く、結構平和裏に絶縁している。

新旧宗派の抗争もそれほどなかった。

宗教権威と世俗権威の強烈な制約を比較的受けずに

素朴で素直な音楽が出現したのだろう。

ほんとに純朴だ。

ほかの地域はどんだけ宗教権威と世俗権威の制約があったのか。

無理に無理を重ねて気の毒なくらいだ。

もっとも制約が強いと芸術的昇華もしやすいという

面は否定できないけどね。

イギリスには他地域のような「偉大な」作曲家は少ない。

がなにかほっとする、アットホーム的な雰囲気、

背伸びしない普段着の風情

がイギリス音楽にはある。

どの時代のどの作曲家の作品もそんな感じである。

イギリス音楽史上、最も天才だっただろう1659 パーセル氏

の歌劇ディドとエネアスやメアリ女王の葬送音楽を改めて

見聞きしてやはりと納得した。

パーセル氏の音楽は宮廷や教会の御用達調度品の要素はゼロだ。

1685 ハンデル氏を招聘して帰化までさせているが

ハンデル氏の作品もイギリス支配層への媚びの要素はゼロだ。

近代の1852スタタンフォード氏 1857エルガー氏 

1872ヴォーン・ヴィリアム氏 みな思惑の無い素直な音楽を書く。

純粋に「音を楽しむ」音楽 それがイギリス音楽の伝統。

大変好ましい属性と言えよう。





この純朴さと7つの海を支配した大英帝国の

イメージのギャップは何なのだろう。

仄聞した真偽不明の噂では

古代エジプトの秘教と金融の支配原理を伝授された

のがイギリスの支配層だったらしい。

何故イギリスなのかはわからぬが。

もしそれがほんとなら、

その流れは今日まで脈々と繋がっていることになる。

どうも彼らは国内では伝授された方式をあまり使わず

国外で本格的に試してみたのか?

あれ、本当に世界支配できちゃったよ。

みたいな?

イギリスの庶民はきっと純朴のままなんだろうね。

まあ いつもすべて妄談ですがね。

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