日本人のバッハ演奏

さて、わたくしは今後の人生で

たとえばJSBach氏のカンタータを聴くのであろうか?

もしかりに聴くのだとしよう。

はたして西洋人の演奏を主に聴くのか

それとも日本人の演奏を主に聴くのか

どっちを選択する?

これが少し悩ましい。

前者は聞き慣れていて違和感がなくいつもの景色だ。

後者を選べば道程変更であり新たな景色であろう。

いつもながらためしに聴き比べしてみた。

前に書きなぐったことの確認だったが

やっぱり両者は天地ほどにも違う。

演奏家の個人資質を超えた厳然とした相違を感じる。

単音の出し方がまず違う。

西洋人の単音は打撃音の如く。

日本人の単音は吸着音の如く。

複数音の表現も違う

西洋人の複数音の表現は

果断で非溶解性の属性あるが如く。

日本人の複数音の表現は

集団的で溶解性の属性あるが如く。



35年前にJSBach氏のカンタータを聴こうとすれば

音源はカール・リヒター氏が有名だった記憶が。

今だともう亡くなったが

ニコラウス・アーノンクール氏あたりだろうか?

わたくしは演奏家をあまり知らないので。

リヒター氏の鋭い感性に比べて

アーノンクール氏はずいぶん温和な感性に見える。

が日本人のバッハ演奏家S氏と聞き比べれば

歴然とアーノンクール氏の演奏は果断で鋭利である。

これはもうどうしようもない。

解釈とか演奏スタイルの問題ではなく

もっと根本的な西洋人と日本人の相違なのだ。

もちろん優劣の問題ではない。

S氏にも多量のカンタータ音源がある。

わたくしにとって

受難曲その他はもうリヒター氏のイメージが

強すぎてどうにもならないだろう。

比較的手垢のついていないカンタータを

今後きくとすればそればやはりS氏の音源

がいいのかもしれない。

理由は日本人だから。

単純にそれだけ。


この問題はカンタータに留まらず

チェンバロ、ピアノ、ヴァイオィン で数人の優秀な

日本人の音源がバッハ曲目をカヴァーできた暁には

そっちに移行する可能性をはらむ話だ。

そんなに遠くない時期にそうなる予感はあるけど。



さて、日本人の演奏家が

欧米に居住する期間が長くなればなるほど

ハイブリッド化が進む。

珍味ゆえに欧米では評価を受ける。

日本人の演奏家が世界で評価される

唯一といってよい道かもしれない。

日本では欧米での高評価が肩書になり燦然と輝く。

皆褒め称える。

くさす人はいない。

欧米に喧嘩売るような輩はいない。

珍味は好き嫌いのふり幅があってこその珍味なのだが…

わたくしは個人的には国籍不明風の    

もしくは二重国籍風の珍味は好みではないかな。

ズバリ本音を言わせて頂ければ

海外経験なしか、短期間留学後、日本国内で活動する

演奏家の演奏が好みである。

つまりあまりハイブリッド化していない演奏が良い。

できればの話である。


まあ例えばピアノで

果断風な指使いを披露する日本人演奏家を聴くと

追い付け追い越せの思想を感じることがある。

彼我の優劣を前提にする意識の存在はいらない。

背伸びしている風は滑稽かも。

欧米に帰化しているかのような経歴の演奏家の

果断な指使いは、堂に入っており立派である。

あとは好みの問題だけだ。


よし、はじめて日本人演奏家の放談ができたぞ!?



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ケルル氏とパッヘルベル氏②

1627 Kerll氏についてだが

1653 Pachelbel氏のウィキペディアでは

Kerll氏は南独のオルガン作曲家の重要人物として書かれ、

Pachelbel氏はKerll氏の弟子に師事し、

さらにKerll氏本人にも師事したかもしれない

と書いてあった。

いっぽうKerll氏のウィキペディアでは

Kerll氏はオルガン教師として当時から有名。

Kerll氏の作品はこんにちほとんど演奏される機会はなく

ただ1685Bach氏に影響を与えたという一点のみで名前が

残っている  というような記述だった記憶がある。

どっちがより事実に近いのか?

両方ともドイツ語に原典がある記述なのだろうが。

Bach氏に影響を与えたとはどういうことか?

写譜が残っているということか?

Bach氏は価値を認めない曲の写譜はしないだろうから

もしそうなら

Kerll氏のウィキペディア記述は変である。

Kerll氏を聴くと南方系で理知的な立派な作品である。

いったいKerll氏はどのように思われているのだろうか?

これほどのポテンシャルの曲を切り捨てる記述が

本国に存在するのは驚き。

いったいどうなっているのか?

Pachelbel氏のウィキペディアでは

南独のオルガン作曲家としてKerll氏のほかに

数人の名前が記されていたが

はじめて聞く名前ばかりであった。

彼等のポテンシャルはどうなのだろうか?

少し気になるところではある。


北独のバロックオルガン曲を濃密なロマン派に例えるなら

南独のKerll氏のそれは新古典派である。

しかも新古典派のような人工的な臭いのしない自然な響き。

現代の感性に近しい響きである(と思う)。

Pachelbel氏はもっともっと突き抜けている。

それが南独オルガン音楽の特色の延長線上の範疇なのか

完全なる個人資質に依るものなのか 判然としない。

オルガン音楽におけるTelemannのようでもあり

現代の優秀なインストルメンタルの要件すら完備している。

全くもって突然変異的なのだが……

だからこそ稀代のヒットメーカーなのだろうけど。





さて、完全無欠のワイドショーネタであるが

Pachelbel氏もKerll氏も ネット上での肖像画を

拝見するにかなり残念な事態になっている。

つまりイケメンとは言い難いところがある。

はっきり言えばかなりのブス。

なぜだろう?

才能ある音楽家はそれなりの容貌なことが多いし

十人並の容貌であってもかなりもてるはずである。

スカルラッティのドラ息子氏がよく知られるが

パトロンの王侯貴族とできてしまう音楽家は

少なくなかったはずである。

しかるに彼等の肖像画が事実の一端を伝えているとすれば

お二人に関しては200パーセント無いと断言できる。

評伝で醜男ネタをいじられている作曲家は

知る限りツエムリンスキー氏だけだけど…

ひょっとしてお二人は画家へのチップを惜しんだのでは。

どうみても悪意がそこはかと漂う肖像画ではある。

この時代、チップをはずまなかった有名人は

お二人だけではないようだが?




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ヨハン・パッヘルベル氏

1653 Pachelbel氏 は不思議な作曲家である。

教会オルガニストも務めたが、それが本領ではなさそうだ。

室内楽や声楽もたくさん書いたが

本分はオルガニストであり、オルガン作曲家のようだ。

彼の不思議な点はふたつ。

オルガン作曲家としては古今唯一の大ヒットメーカーである事。

(バロック期として異例であろう)オルガンが生活空間の居間に

備わる楽器であるがが如き身近で日常的な趣の作風である事。

二つの不思議点は連動しているのだろうけど。

バロックまではオルガンは教会に備わる楽器が前提であるが

如き趣の曲がほとんどである。

(荘厳 厳粛 精神性 そんな風情がオルガン曲の属性のように。

たとえ非宗教曲であっても。

その傾向が明確に変わったのはもっとあとのこと。

1724 Balbastre氏が象徴的なんだけどね)

なのに Pachelbel氏の非宗教曲はすでに荘厳厳粛どこ吹く風である。

(1562 Sweelinkの一部の曲にすでにその匂いはあるのだが…)

荘厳 厳粛 豪快なオルガン曲を好んできたわたくしは

南独のオルガン作曲家として

1653 Pachelbel氏 よりも1627 Kerll氏のほうが…

なんだけどね。

でもやはり Pachelbel氏の楽才と宗教曲の出来栄えには

文句なく脱帽である。

しかも時を超えて現代でも多くの人に支持される楽想。

Pachelbel氏の突然変異ぶりは突出している。

後にも先にもない存在だ。

バロックとともに萎んだドイツのオルガン音楽はともかく

連綿として続くフランスのオルガン音楽でさえ結局

1822 Franckが荘厳厳粛な属性を呼び戻しているのに。




Pachelbel氏の話はここで終わりだが

書いていて想起された別の事案を書き留めて置く。

(なに? パッヘルベル氏にそれほど思い入れがないのかって?

バレちゃしょーがねーや!)

続く



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フランス・バロック・オルガン音楽

1632 Nivers氏を知ったのをきっかけに

再度フランス・バロック・オルガン音楽を逍遥してみた。

経歴と意識が

教会オルガニスト>作曲家 か

作曲家>教会オルガニスト か

という視点から。

(以前にもちょっと考えたことがあるけど)

前者と後者はかなり異なる音楽空間だ。

それが再確認された。

作曲家としてではなく

教会オルガニストとしての生き様が

推測される方のオルガン曲が最も好みに合う。

(何回も言うが、わたくしは宗教に何の興味もない)

教会オルガニストとして生きた人の特徴は

宗教的オルガン曲以外の作品が無いか、ほぼ無いこと。

人物像を示すエピソードの記述がほぼ皆無であること。

1632 Nivers氏  1649 Boyvin氏  1650 Raison氏

1671 G.Corrette氏 1672 Du Mage氏 1672 Grigny氏

この人たちだ。

わたくしにはかけがえのない曲たちであるが

彼らの作品の音源は日陰にひっそり咲いている。

理由は人気がないから。

1680 Guilain氏 は教会オルガニストの確認が取れないので

挙げなかったが、

何となくそんな意識を持った人のように感じる。

この人はもともとドイツ人でマルシャン氏の弟子らしい。

フランス8 ドイツ2 くらいのハイブリッドな感じ。

1563 Titelouze氏 は教会オルガニストなのだろうが

挙げなかった。

この人の曲は少し上記の方々とは異質に聞こえる。

その訳はちょっと答えを留保したい。

そのうちに。




さて あとは作曲家としての意識のほうが強い人たちである。

1624 Roberday氏 1629 D'Anglebert氏 1631 Lebegue氏 

1662 L.Cuperin氏 1668 F. Couperin氏 1669 Marchand氏

1676 Clérambault氏 1682 Dandrieu氏 ……


まあ今日のところはそんな感じかな。





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毎度! F-Couprin氏

今までF-Couprin氏を結構茶化してきた記憶があるが、

今日はF-Couprin氏への「真面目な放談」からはじめよう。

F-Couprin氏のセンスと楽才は確かに素晴らしい。

彼の曲には透明感もあり、素直できれいな音楽である。 

F-Couprin氏がヴェルサイユ宮廷という伏魔殿に棲息

する覚悟をいつ決めたのか知らないが……

仮面音楽。

本音が渺恾として見えない。

高級宮廷御用達調度品という値札だけがよく見える。



高級御用達調度品といえばTelemann氏の「食卓音楽」は

そのものズバリである。

楽譜の予約注文を全欧から受け付けたというから

自信と立場が裏口から宮廷に出入りする出入り業者とは違う。

高級御用達調度品の要件を完璧に満たしながら

室内合奏曲としての至高の表現形態も成就している。



仮面音楽と言えばPalestrina氏が思い浮かぶ。

F-Couprinはおそらく処世の術としての仮面音楽だろう。

Palestrina氏の肖像画を見よ。

言う事と思う事は違いますよという表情である。

駆け引きする相手はバチカンであるから並大抵でない。

一国の宮廷どころの騒ぎではないのだ。

Palestrina氏の肖像画を見ていてふと感じた。

中世以来の目的ここに成就せり。

ローマ教皇庁に転がされ続けてきた作曲家が

ついにローマ教皇庁を転がしたのだ。

ざまーみやがれ。

そんな表情に一瞬見えた。



どうも毎度のことながらF-Couprin氏の話題になると

いつもF-Couprin氏が前フリになってしまう。

ほんとうに申し訳ない。

わたくしは決して君が嫌いではないからね。

F-Couprin君。




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イギリス音楽

最近、時々感じているのだが

イギリスの音楽はいつの時代の誰を聴いても

くせがなく、素直で素朴だ。

そしてとにかくわかりやすい。

そんな音楽がイギリスの音楽。

ヨーロッパの他の大国にはない特徴だ。

好んで聴くわけではないのだが…

なぜだろうと思う。

大雑把に考えてみれば

イギリスには強力無比な中央集権王朝はついに出現しなかった。

いくつかの部族のゆるやかな連合体の面影を残して推移している。

大陸の血生臭い抗争からは距離を置くことが多かった。

あくの強い宮廷(音楽)は展開しなかった。

バチカンの影響も比較的薄く、結構平和裏に絶縁している。

新旧宗派の抗争もそれほどなかった。

宗教権威と世俗権威の強烈な制約を比較的受けずに

素朴で素直な音楽が出現したのだろう。

ほんとに純朴だ。

ほかの地域はどんだけ宗教権威と世俗権威の制約があったのか。

無理に無理を重ねて気の毒なくらいだ。

もっとも制約が強いと芸術的昇華もしやすいという

面は否定できないけどね。

イギリスには他地域のような「偉大な」作曲家は少ない。

がなにかほっとする、アットホーム的な雰囲気、

背伸びしない普段着の風情

がイギリス音楽にはある。

どの時代のどの作曲家の作品もそんな感じである。

イギリス音楽史上、最も天才だっただろう1659 パーセル氏

の歌劇ディドとエネアスやメアリ女王の葬送音楽を改めて

見聞きしてやはりと納得した。

パーセル氏の音楽は宮廷や教会の御用達調度品の要素はゼロだ。

1685 ハンデル氏を招聘して帰化までさせているが

ハンデル氏の作品もイギリス支配層への媚びの要素はゼロだ。

近代の1852スタタンフォード氏 1857エルガー氏 

1872ヴォーン・ヴィリアム氏 みな思惑の無い素直な音楽を書く。

純粋に「音を楽しむ」音楽 それがイギリス音楽の伝統。

大変好ましい属性と言えよう。





この純朴さと7つの海を支配した大英帝国の

イメージのギャップは何なのだろう。

仄聞した真偽不明の噂では

古代エジプトの秘教と金融の支配原理を伝授された

のがイギリスの支配層だったらしい。

何故イギリスなのかはわからぬが。

もしそれがほんとなら、

その流れは今日まで脈々と繋がっていることになる。

どうも彼らは国内では伝授された方式をあまり使わず

国外で本格的に試してみたのか?

あれ、本当に世界支配できちゃったよ。

みたいな?

イギリスの庶民はきっと純朴のままなんだろうね。

まあ いつもすべて妄談ですがね。

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1632Nivers氏②

1632Nivers氏について続報(というか補足)

1632Nivers氏を聴いて受けた印象の表現が不適切であった。

最初に感じたのは1632Nivers氏の音楽の透明性だった。

そこで1672 Grigny氏の音楽も透明性があることを思い出した。

二人の透明性はほかの仏バロック・オルガン音楽に類がない。

1632Nivers氏の色は白色に近い。

1672 Grigny氏の色はより淡色カラフルではあるが…

さてここからの記述は「私的音楽療法」に分類される妄想になる。

透明性は作曲者もしくは演奏者の心の属性の問題である。

要は心がきれいかきたないかということ。

またはよけいな雑念が混じっているかどうか。

二人の場合はおそらく作曲者の心の問題だ。

心がきれいな人の音楽はきれいだ、という当たり前の話。

わたくしは技法上の「優劣」より透明性の「濃淡」を重視する。

1632Nivers氏が1672 Grigny氏につぐポテンシャルがあるかもと

言ったのはそういう意味だ。

そこは訂正しない。

(こういう考えは「進歩史観」とは親和性がない。

音楽は時代とともに進歩しているとは全く考えない。

変化していくだけである。

「優劣」はない)



LPやCDしか音源が無かったころは

聴こえてくる音源の「優劣」はだいたい演奏者の心の属性の問題で

決まった。

それだけ雑念にまみれた音源が多かった。

PCに音源が溢れている昨今は

演奏者の心の属性はほぼ無問題になった。

再び音楽産業が音源を支配するようになれば

演奏者の雑念は再び増加するに違いない。

そうならないように願う。



二人の比較でNivers氏を軟派なGrigny氏と言ったのは

ちょっとふざけ過ぎたかもしれない。

Grigny氏は透明、清澄、華麗、幻想的な空間。

Nivers氏は透明、清澄、瞑想的な空間。

というより どうせふざけるなら

Grigny氏を軟派なNivers氏というべきだったか。

典礼曲としての目的だけなら

Nivers氏のほうがかなっている見方もできるだろう。



どっちにしても、彼等二人の全曲を通しての

化けの皮が微塵も剥がれない透明性は

残念ながらほかに全く見当たらない。

フランス・バロック・オルガン音楽の二大代表者

で決まりなのか?



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GG.NIVERS氏

GG.NIVERS氏のオルガン曲集第一巻を聴いた。

かなりのポテンシャルを持った曲なのに

今まで知らなかった。

今日の段階ではGG.NIVERS氏の情報は下記のものだけだ。

グリニー氏より40年ほど早く生れたフランス人であること。

今までGG.NIVERS氏の名前を見たことがない。

オルガン曲しか残っていない作曲家かも知れない。

であるならば教会オルガニストかもしれない。

この曲集が宗教的小曲集なのかどうかもわからない。

聴く限りはそう聞こえるが。

明日調べてみて違っていれば書きなおすことにする。

今日聴く限り

フランスのオルガン曲において

グリニー氏の弟分のような音楽。

年上ななのに。

そう、似ているといえば似ている。

グリニー氏に影響与えた人かもしれない。

少しものわかりのよくした軟派なグリニー。


そんな感じだが、これは悪口ではない。

平易な「つくり」は言うほど簡単ではないから。

グリニー氏の陰影のある幻想性は無いけど…

GG.NIVERS氏には若干のオルガン曲いがいの作品も

あるようだ。

教会オルガニストは間違いないようだ。

ネットの翻訳サービスが終了したみたいで

情報はそれしかない。

何か 昆虫マニアによる想定外の新種発見の気分である。

言い方は失礼千万だが。

グリニー氏につぐポテンシャルかもと

感じているのは 早とちりか?

昨日の今日だから…


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ニコラ・ド・グリニー

久し振りに聴いてみても 何回聴いてみても

やっぱり同じことを感じる。

たぶん今後も同じかもね。

いつもの如く

ネタ切れの言い訳かもしれぬが

畢竟 西洋音楽の楽器はオルガンにこそ神髄がある。

古今のオルガン曲は宗教的小曲にこそ神髄がある。

JSバッハの「オルガン小曲集」のように。

ならばそれらは教会オルガニストの作でしかないだろう。

わたくしはそれらの曲たちに宗教的意味を全く感じない。

人間の内観のあらゆる感情の表出を感じるのみである。

こんなにも内なる感情の種類の表出があるものなのか。

それらをこんなにも追求するものなのか。

ほかの楽器では有り得ないことだ。

やはりオルガンは最も根源的な楽器である。

今回の文明が作った最高傑作の一つであろう。

かつては欧州どの地域でもオルガン音楽はあっただろうが

見える限りでは

西と伊はバロックとともに終わる。

独もやや遅れて終了する。

その他の地域では波に注目する。

古今つねに連綿として続いているのが仏である。

仏を代表する奇跡的な1672 Grigny のオルガン曲集第一巻。

(この曲は要するに宗教的小曲集である)

初めて聴いたときの衝撃は忘れない。

良き仏音楽一般の特徴である「抜群のセンス」

それが他の仏オルガン音楽と比して隔絶している。

それに加えて「厳粛」「華麗」「幻想性」などの要素が

混然一体となって融合している。

仏音楽の奇蹟の一品であり、

全オルガン作品を代表する佳品だ。

1583 Frescobaldiの音楽の花束も要は宗教的小曲集だ。

凝縮的な深淵を見せる作品は

これもオルガン音楽の頂点の一つであろう。

一体この凄さは何なのだろうね。

(ヴァイオィン音楽も伊では

決定的な展開をバロック初期から見せる)

個人的には Frescobaldi に最も親近感を持つことを

白状しておこう。

Grignyに対しては憧れが強い。

センスのない者にはGrignyの音楽はまぶし過ぎるのだ。

西に行こう。

1584 Arauxo  1644 Cabanilles 甲乙つけ難い。

二人もの選択は西音楽への哀悼の意。

教会オルガニストの宗教的小曲は歴史に名前が残っているような

人の作品はみな心打たれるものがある。

甲乙つけがたい。

敢えて甲乙付ける不遜は覚悟の上。

Cabanillesに関しては異国情緒趣味とでも言っておこうか。



1637 Buxtehude  1653 Pachelbel  1685 Bach

独墺からは無難なところで上記の三人を挙げておこう。

仏でもGrigny 一人に絞ったのだから もっと絞りたかったが

1685 Bach がオルガン音楽の範疇を逸脱している件、

南北でまるで異なる様相を見せる当該地域の特徴の件、

そんな理由により三人になった。




以上の面々の作品を聴いてみて嘆息する。

Grigny作品を凌駕するのは 選抜されたわずかのBach作品のみ。

これが今日の結論。

偉大な作品の二者択一を試みれば、センスのある方をまず選ぶ。

それで終了である。

よってたいていGrignyに軍配があがる。



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関係ない話

スポーツ専門の雑誌で

かつて怪物と言われたベテラン投手にまつわる人間模様を特集していた。

かつて怪物と言われた投手は今再起を賭けた挑戦をしている。

その記事を読んでいて、ふつふつと疑問が湧き起こってきた。

ここ30年で怪物と言われた投手は彼のほかにもう一人いた。

二人とも怪物なのに通算200勝にはるか及ばない勝数で引退、

もしくは今マウンドに立てない危機に見舞われている。

二人とも高校時代の活躍が伝説中の伝説になっている。

高校時代から既に怪物なのに、プロになってから耐用年数が短い。

これはアマチュア時代の酷使が原因ではないか?

こんな疑問は素人でも呈することができる。

と言うか、ほかの原因があったら教えてくれ!

とすら感じる。

なのに、この特集はそんなことは全くのスルーである。

準々決勝 250球完投!

決勝 ノーヒットノーラン達成!

称賛の嵐である。

非難の嵐の間違いでは?

怪物の耐用年数を削った起用法への反省は?

それが特集のテーマになるべきでは?

今日も新聞の見出しにこんな文字が

○○投手 7試合連続二桁奪三振の日本新達成!

アメリカでは先発投手の投球回数の上限が設定され

上限に達すれば何回であろうと交代になるのが普通と聞く。

これは選手(商品)の寿命(耐用年数)を維持する

ために科学的データに基づいて設定されているはず。

日本の情緒的なところが悪い面として出るところだ。

高校生が一人で投げ抜いた250球にファンが感動し

完投が投手の理想と選手と指導者ともに思う。

情緒的なところが残酷さを生むケースだ。


かつて零戦は信じられない航続距離と空戦性能を引っ提げて登場した。

米軍は零戦を見れば逃げても可とし、英軍もまったく歯がたたなかった。

が戦争末期には零戦はライターと米軍に嘲笑されていた。

よく火がつく意味である。

つまり防御性能を犠牲にした航続距離と空戦性能だったのだ。

そして速度は不足気味であった。

しかもそれらの欠点を補う改修は最後までなされず

生き残った零戦パイロットは誰もそのことを非難しない。

零戦の空戦センスは本当に抜群だったらしい。

ここでも情緒的とところが残酷な結果を生んでいる。







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